留学内容
3か月間の現地大学での授業の受講ののち、2ヶ月間の民間企業でのインターンシップ、7か月間のウガンダ国の研究機関でのインターンシップを行った。大学では主に農村開発や農業経済の講座を受講した。民間企業でのインターンシップは、契約する農家での圃場のチェックや野菜の集荷・配達、イベント販売などを行った。また、契約農家での1週間ほどのファームステイもした。公的機関でのインターンでは日本の独立行政法人との稲作の研究・普及を行う共同のプロジェクトに入り、2つの試験と上司の研究・普及の補助を行った。
最終更新日:2020年06月19日 初回執筆日:2020年06月19日
語学力:
| 言語 | 留学前 | 留学後 | |
|---|---|---|---|
| 英語 | 生活に困らない程度の日常会話ができるレベル | → | 授業や会議の内容が理解でき、必要な発言ができるレベル |
3か月間の現地大学での授業の受講ののち、2ヶ月間の民間企業でのインターンシップ、7か月間のウガンダ国の研究機関でのインターンシップを行った。大学では主に農村開発や農業経済の講座を受講した。民間企業でのインターンシップは、契約する農家での圃場のチェックや野菜の集荷・配達、イベント販売などを行った。また、契約農家での1週間ほどのファームステイもした。公的機関でのインターンでは日本の独立行政法人との稲作の研究・普及を行う共同のプロジェクトに入り、2つの試験と上司の研究・普及の補助を行った。
アフリカに行ってみたかった。途上国での農業普及の現場を実際に体験することで自分がどんなことを学び身に着ければよいか参考にしたかった。とにかく早くアフリカへ行きたいと思い、大学1年次でトビタテに応募した。初めてのアフリカだったので、確実性のある、大学の協定校のあるウガンダへ留学した。
企業と公的機関双方での農業普及の現場で実際に働いてみることで、双方の特徴をフラットに比較することができた。また、途上国での農業の技術普及をするうえでどんなことが重要か学ぶことができた。インターン先での研究・普及を通じて農学に対する知識が深まった。
生きる力
自らを知り、自分にできることとできないことがあることを受け入れ、その中で与えられた環境の中で最大限に自分の力を発揮して生き抜く力がついた。留学中、計画の変更をすることになったが、研究室にすら入っていない、英語もしどろもどろな学部2年生の私が、自身のチャレンジ精神や持ち前の明るさ、諦めない心などをアピールポイントとして、新たなインターン先を見つけることができた。
先の大きな目標がさらに明確になったが、それ以上に今現在、目の前のことに全力で取り組もうと思っている。アフリカの地でとても濃い経験をすることができたので、将来的には農業の技術者としてアフリカの地から世界の農業を支えていきたい。
夢:テクノロジーで日本や世界の食料生産に関わる社会問題を解決する。
2016年
8月~
2017年
8月
(1)現地大学での授業の受講を3か月(2)民間企業でのインターンシップ2か月(3)ウガンダ国の研究機関にて日本の独立行政法人と共同の農業普及プロジェクトにインターンとして7か月参加した。(1)では主に農村開発や農業経済の授業を受講した。農村地域でのウガンダ国の政策や取り組みなどを学ぶことができたものの、度重なるトラブルにより当初の期間を短縮し3か月間の所属になった。(2)では主に契約する農家と野菜の生産補助に携わったり、有機野菜の集荷、配達業務を行った。また、外部資金を獲得してビジネスを行うにはどうすればよいかという方法を学ぶことができた。(3)では主に稲の研究・普及をおこなった。研究は水稲と陸稲計2つの圃場試験を任され、また上司の研究補助を行った。普及では主に種子生産圃場での栽培補助や、各地域でのトレーニングを視察した。
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学費:納入総額 - 円 |
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住居費:月額 30,000 円 |
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生活費:月額 50,000 円 |
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学費:納入総額 - 円 |
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住居費:月額 30,000 円 |
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生活費:月額 50,000 円 |
専門性がないことに悩み、留学中もいろんなことに挑戦するもなかなか空回りすることが多かった中で、上司から「何か一つでいいから、同世代の中で世界一だと誇れるものを持て」と言ってもらい、この一言に支えられて最後まで留学をすることができた。コツコツと努力を積み重ねた先に、大きな成功がある。
友人と共にナイル川でのラフティングに挑戦した。いくつもの激流を乗り越えまるまる1日かけてコースを下りきったものの、友人二人がマラリアにかかってしまいアフリカの恐ろしさを知った。
「長期でアフリカに行く」と伝えられて不安に思わない親はいないと思う。私は留学を決意した時点でまず最初に思いを伝え、そのためのお金のことやその他もろもろのことをすべて自分でやると言って奨学金プログラムに応募した。最後には両親も応援してくれて無事に渡航することができた。